
曽祖父が熱心な信者だったようで、この地域に最初に聖書を持ち込んだのは、うちの曽祖父らしいです。明治時代出版の聖書が或るのにはビックリしました。古文の教科書より読めない文字ばっかだよ・・・

その関係で、エホバ信者の方々がうちに尋ねてきてはお話をしていってくださいます。
もっとも、彼らのお仕事は布教活動なので、私がエホバ信者になることは別問題だと思っているので、いつも古い明治時代の聖書と、貰った聖書入門書のような本を片手にいつもお話を聞いています。
曽祖父が信者だからといって、我が家がそうだというわけではなく、小さい頃からうちは神道です。
ばあちゃんの葬式とか、一年祭とかに「かしこみかしこみ」やって貰いました。
高校は仏教系の高校に。浄土真宗でした。月に一回、お偉いさんのお話を講堂で聞く恒例行事があったなぁ。
仏典には、結構哲学的な教えがかかれてあって興味を惹かれました。
だから私は、無宗教ではなく、多宗教な感じです。
それゆえか、地元の同級生がエホバ信者の家系だということもあり、余り抵抗はありません。
けれども私は正面から神の教えとか、聖書は神が作られた本だといわれても、うぅん

と首を傾げてしまいます。神の言葉をダニエルという人が書いたもの、それが聖書。この本には人の創造や予言が書かれている、と言われても理解しよう、という気にはなれません。
信仰心から読むのではなく、面白半分、普通の読書感覚で読む、という感じでしょうか。
ただ、京極夏彦の小説のように、今神と呼ばれるものは嘗ては人間だった。死んでその栄光を祭り称えたのが神と呼ばれるようになった(つまり学問の神、菅原道真のように)、という解釈があって、古事記や日本書紀に書かれている神話とされるものが、大昔の生きていた人間の歴史書であるとするならば、この聖書も昔の人の歴史書である、と考えて読めば、食えないこともない本だと思っています。
ノアの箱舟だって、神の啓示云々は置いておいたとしても、洪水が来ることを知ったノアが箱舟を作り、家族とさまざまな動物の雄雌を乗せて、洪水に飲まれることなく難を逃れた、という聖書の内容にしても、真っ向から嘘だとは考えず、そういう人が居たんだなぁと。
そこで信仰心のない私が疑問に思うこと。
ノアが洪水を逃れたという事実と、神の啓示を受けたのはどちらが先だったのだろうか。
聖書には神の言葉を受けたノアが箱舟を作ったとあるけれど、これが人の歴史であるなら、ノアの箱舟は神のなせる業だと、後の人が信仰に基づく解釈をしたことになるなぁと、思ってしまうのです。
だから神の言葉を書き写したダニエル自身がもしかしたら預言者だったのかなぁと。
それを神の言葉として聖書としたのかなぁと、思うわけです。
もちろん、私の考えはエホバへの信仰心がないから、聖書は人の歴史書だと思うのであって、信者にとってはやはり神からの言葉がつづられた聖書である、とこれは捉え方の違いなので仕方がない。
姿は見えないけれど、私達をお造りになった神様がいらっしゃる。という考えよりも、
去年死んだばあちゃんが、ご先祖様となって我が家の守り神と成り、家族を見守ってくれている、という神道の考え方のほうが、身近であったかくて安心するのは事実です。
だから、いつも見守っていてください。と毎朝御霊様にお参りするんです。
神様は違うし、そのお祈りの方法も違うけれど、信仰で行き着く先は同じような気がするのは、私だけでしょうか。
同じ一神教でも、仏教はちょっと回りくどく自身で考えることを道としてそれを諭し、聖書は神という存在を位置づけて人の歩むべき道を明確にしてしている、という印象を受けました。
私なりに、この聖書をどう理解しようかなんだかいろいろ模索中です。